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みなとミュージローブログ

2013年07月19日

江戸人も経験したことのないシーンを体験することができます(みちのく丸東京港入港)


江戸人も経験したことのないシーンを体験することができます(みちのく丸東京港入港)

  8月5日(月)に「みちのく丸」が東京港に入港します。着岸・係留場所は10号地その1の多目的ふ頭(ビッグサイト横)です。予定では、5日午後に若洲・葛西沖のヨット訓練水域周辺で展帆し、実際に走航しますが、8月7日(水)には東京港を出港するので実物を見られるのはわずか3日間です。  


「みちのく丸」は、青森県の「公益財団法人みちのく北方漁船博物館財団」が建造・所有する北前船の復元船で、現在では自力走航できる唯一の千石船です。150トン積で喫水は3mほどあります。

みちのく丸の入港は、江戸時代の珍しいシーンが再現されるというよりも、江戸人も経験したことのないシーンが見られる点に大きな意義があります。一つには、北前船は日本海沖から瀬戸内海へ来航する廻船であり、菱垣廻船や樽廻船のような江戸湊に来航する船ではないことが挙げられます。北前船が江戸湊に入港するシーンは江戸人もまず見たことはなかったでしょう。



 それよりももっと江戸湊を知る上で、本質的な意義があります。上の写真をご覧ください。これは、東京みなと館の江戸湊の復元模型です。新川河岸(現:中央区新川)に灘、伊丹から新酒が運ばれてきたシーンが再現され、小さな艀に4斗樽が満載されて運ばれてくる様子がよくわかります。でも、観察眼の鋭い方ならすぐ気が付くのは、大きな千石船の姿がどこにもない、という点です。
江戸湊は隅田川河口に開かれた河口港で、上流から大量の砂が流されてきて海域が埋まってしまうという宿命をもっていました。
下の写真をご覧ください。明治39年の水深図です。台場より北側の水深は2mがやっとのところで、江戸湊には、喫水が3m近い千石船は入港できなかったことがわかります。当然、着岸できる岸壁・ふ頭なども整備されておらず、千石船は、品川沖などに停泊して積荷を艀に移して運ぶ荷役スタイルが大正期まで続きました。
 千石船(みちのく丸)の東京港に着岸・係留は、江戸人が見たくても見ることのできなかったシーンなのです。

 東京港が近代的港湾に整備されていくのは関東大震災後のことですが、それについては別の機会にご説明します。


東京みなと館の情報はこちら



at 10時50分

2013年07月08日

今月の逸品vol.21 道の駅「開国下田みなと」(ハーバー&JGFAカジキミュージアム)の「秀吉の小田原攻めと下田城の模型」



「今月の逸品」第21回は、道の駅「開国下田みなと」(ハーバー&JGFAカジキミュージアム)の「秀吉の小田原攻めと下田城の模型」です。  

秀吉の小田原攻めと下田城の模型



豊臣秀吉と後北条氏の対立により、天正16年(1588)、後北条氏の水軍の守りの拠点として下田城が整備されました。下田城は、海抜72m余の高台を中核として、これを囲む空堀が延々とめぐらされています。下田城にこもる清水康英と長曽我部・九鬼・脇坂他1万を超える豊臣水軍との間で戦となり、およそ50日ほどの籠城戦が繰りひろげられました。中世の海賊城として全国的にも珍しい下田城は、現在でも空堀や曲輪等が良好な状態で残されています。
当館では、下田城を模型で復元し、展示するとともに、展示室からは下田城跡を遠望することができます。




―JGFAカジキミュージアム―

当館目の前にある下田湾にて毎年開催される国際カジキ釣り大会は今年で第35回を迎える盛大な国際大会です。
黒潮の流れる下田沖から伊豆諸島周辺にかけては絶好のフィールドです。
毎年下田市民もサーポートメンバーとして大会を応援しており、その歴史ある国際カジキ釣り大会の第30回を記念して、当館のミュージアムに新たに併設されたミュージアムです。
本来の下田の歴史を紹介するミュージアムとご一緒にご覧いただけます。
カジキ釣りの魅力や大会の歴史、実物大のカジキのレプリカなどを紹介しております。 

 

  

道の駅「開国下田みなと」(ハーバー&JGFAカジキミュージアム)の情報はこちら



at 15時39分

2013年07月08日

世界自然遺産「小笠原諸島」と「伊豆諸島」にまつわる知られざる歴史



 夏です!夏休みの計画はもうバッチリでという方も多いと思いますが、まだの方、東京には世界自然遺産の小笠原諸島と身近な伊豆諸島があります、東京の島も素敵ですよ。というわけで、東京みなと館は9月末まで写真展「東京の島々」を開催しています。
  
 ところで、「小笠原」の名前の由来はご存知でしょうか?また、小笠原諸島や伊豆諸島が何故東京都に帰属しているのか不思議に思ったことはありませんか?実は、これには意外な歴史的経過があるのです。

 日本人による「小笠原」の発見は、記録によると1670年のことです。阿波のみかん船が無人島(むにんとう。後の小笠原)に漂着し、帰還後地図と共にその報告が幕府にあがってきました。しかし、幕府は何もせず放置してしまいます。
 その後、1727年に小笠原宮内貞任なる人物が小笠原諸島について「先祖の小笠原貞頼が1593年に発見した」と称し、渡航願いを江戸町奉行に提出しました。ところが調査の結果、貞頼発見説は偽りとわかり貞任は江戸を追放されてしまいます。
 時は移り、外国船が日本近海に頻繁に現れるようになり、ペリーが小笠原諸島で調査をするなど四海はにわかに波高くなってきました。これに危機感を覚えた幕府は小笠原を日本領土と主張することにしました。その証拠は古ければ古いほど良いという立場から、なんと貞頼発見説を追認することにしたのです。その甲斐あって、めでたく1876年に「小笠原」は国際的に日本領有と認められました。
 これで話はおしまいではありません。今度は小笠原の帰属問題が伊豆諸島に飛び火します。

 明治政府は小笠原を帝都・東京に帰属させることが政治的・経済的・軍事的に得策と判断しました。そうなると途中にある伊豆諸島を静岡県に帰属させておくのもいかがなものかということになります。そこで、明治9年に静岡県に編入されたばかりの伊豆諸島を、明治11年に東京府に移管することを決定しました。かくして一体であった伊豆半島と伊豆諸島は分割され、伊豆諸島の島人は2年間だけ静岡県民を経験したあと東京府(都)民を名乗ることになったのです。

 どうですか?「へー、こんな歴史があるの!この夏、島に行ってみたーい」と、思ったでしょ?



東京みなと館の情報はこちら


at 10時46分

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