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「今月の逸品ver.3」 vol.23 口之津歴史民俗資料館   魚群探知機
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    魚群探知機

今月の逸品 第23回目は口之津歴史民俗資料館の魚群探知機です。




口之津歴史民俗資料

今月の逸品 魚群探知機

  

 魚群探知機を開発したのが「古野電気(株)」であることを知っている人は、多いでしょう。しかし、その発祥の地が口之津であることを知っている人は、少ないかもしれません。それは昭和14(1939)年、古野清孝・清賢兄弟によって、ラジオの販売修理を手がける「古野電気商会」として誕生しました。

   今では、アメリカやイギリス、中国やアフリカなどに33の子会社をもつグローバル企業へと成長しました。その背景に、時代の変化を正確にとらえる古野兄弟と有能な社員がいたことはいうまでもありませんが、天然の良港を有する口之津が重要な役割を果たしたことも、また事実です。つまり、天然の良港が古野兄弟の関心を海へと向けさせたのです。

   口之津港は、明治末期まで三池炭鉱から運んできた石炭を海外に輸出する集積地として、活況を呈していました。ですが、明治42(1909)年に三池港が完成すると、口之津港に入る船舶が激減したのです。

   それでも、以前ほどの活気がないにしても、漁船や機帆船が出入りして、港は賑わっていました。そうした賑わいに、兄の清孝は商機を嗅ぎとったのです、折しも、石油ランプから電灯に切り換える機運が高まり、それが事業を拡大させようとする古野兄弟の追い風になったのです。古野兄弟は、船舶用ラジオの取り付けをしながら、機帆船の電気艤装工事を一手に引き受けるようになりました。その結果、社名は県下一円に広がったのです。

   この種の仕事を続けているうちに、清孝の海への関心はさらに強まりました。清孝は、機械の目で見えない魚が見えるようにならないものかと思うようになりました。魚群探知機の開発のきっかけになったのは、ある船頭から「泡が出るところの下には魚がおる」という話を聞いた時でした。昭和18(1943)年のことです。

   戦後、清孝は海軍の放出物資のひとつ、音響測深機を入手します。これは超音波を海底に出して水深を測る装置です。清孝はこの装置を改良して魚群探知機を作ろうとしますが、当時の超音波工学では、魚には反射しない、というのが定説でした。しかし、清孝はこの定説を覆し、音響測深機からほぼ1年の生みの苦しみを経て、音響測深機改良型の魚群探知機を生み出しました。昭和22(1947)年に実用化に成功すると、翌年に販売を開始しました。また同年に、長崎市に進出し、社名を「古野電気工業所」と変更しました。

    魚群探知機の販売を軌道に乗せるためには、長年の経験と勘で漁をしてきた船頭たちの信頼を、地道な努力を重ねて得る必要が必要がありました。しかし今では、本社を兵庫県に置き、船舶用電子機器、GPSやETCなどの産業用電子機器などの製品を、会社の理念「知恵と創造」で作り続けているのです。会社の発展の起爆剤になったのが魚群探知機であることは、いうまでもありません。                    

                                          口之津歴史民俗資料館 館長


泡
灯台

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