最新情報News

ミュージローブログ
「今月の逸品ver3」第16回みくに龍翔館 「越前三国湊風景之図」慶応元年(1865年)
ミュージロー
2021/09/16
三角旗
  • mikuni1-2021

    mikuni1-2021

  • mikuni2-2021

    mikuni2-2021

「越前三国湊風景之図」(一部)




水運・海運物流の拠点「三国湊」

 三国湊を九頭竜川左岸側から俯瞰した風景図で、およそ3m半にわたる巻子状になっています。山王社(現在の三國神社)から雄島までの間を描いており、河に沿って立ち並ぶ蔵並や多くの寺社、番所・米蔵など各藩の施設が、地名とともに見られます。

 越前の木ノ芽峠から北における主要河川は、全て九頭竜川に合流して日本海に注がれていました。その河口に位置する三国湊は、越前各地と日本海を結ぶ水運物流の拠点、また北前船の隆盛した時代以前から、日本海海運の主要な湊でした。
 江戸時代、越前の福井藩や丸岡藩などの諸藩、また幕府領では、各地の年貢米を、兵庫川や竹田川の舟運を利用して三国湊まで運び、そこから大坂に向けて運び出していました。丸岡藩では滝谷村に藩蔵を設置して、その他の諸藩では三国湊の商人の町蔵を借りて、年貢米を保管していました。米だけでなく、商品となる物資も川舟で集められ、大きな船に乗せかえ各地に運んでいました。


描かれた繁栄の湊

 巻末に「慶応元乙丑年」とあり、慶応元年(1865)に手がけられたことがわかります。大坂・瀬戸内と蝦夷地(北海道)・東北を結ぶ北前船の寄港地として空前の繁栄を迎えた三国湊の最盛期も、幕末から明治時代中期にかけてでした。
 絵には、川岸に並んだ蔵並とともに、帆をかけた多くの帆船がびっしり描かれています。多くの河が合流する九頭竜川河口付近は、上流から運ばれる土砂がたまるため河底が浅く、実際に大型の帆船は、このように川に入れることはできませんでした。
 三国湊の豪商で、福井藩とのつながりが深かった内田家や、その菩提寺の出張所である「掛所」も、その名前とともに描かれています。ひょっとすると内田家の関係者が作成に関与したのかもしれません。
 多少誇張された表現ですが、最盛期だった幕末の三国湊の賑わいがいきいきと描かれています。
泡
灯台

Pagetop