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新着資料紹介のコーナー第30回「海の博物館」
ミュージロー
2016/12/12
三重県
三角旗
  • 海の博物館の「八丁櫓の鰹船」

    海の博物館の「八丁櫓の鰹船」

今回ご紹介するのは、海の博物館の「八丁櫓の鰹船」です。


鰹は、大きいものは全長80~90センチ、10キロ程に成長するサバ科の回遊魚で、三重県の熊野灘沿岸には、春に来遊して、秋には南下していきます。
明治の末頃(1910年頃)までは、熊野灘の漁師たちは、一隻の船に八本の櫓をたて立てて漕ぎ進める「八丁櫓」(はっちょうろ)の「鰹船」で鰹一本釣りの漁に出ていました。
明治初期に記された「三重県水産図解」には、「鰹船」について「外面に彩色を施し、緑あるいは黒色を以って図章(印章)を画き、船主の記章を付け、それを見ればどこの村の誰の船かが一目瞭然である。一艘に十人ないし十五、六人乗り。櫓八挺を立てれば、はやいこと矢の如し、僅か三時間に二十里(36~37キロ)内外に達する」などとあり、鰹の群れを黒潮の流れの中で探すこと、また餌を撒き鰹の群れを集めること、釣り上げた鰹を左脇に抱えて釣り針を外すことなど、当時の鰹一本釣り漁を詳しく記載しています。
鰹漁は、鳥羽から南、熊野灘沿岸50カ所の漁村でおこなわれており、一隻の船に親子、兄弟、親戚一同らで乗り込み、朝暗いうちに活きた鰯をカンコ(活け間)に積み込むと、沖の漁場に向かいます。鰹の群れを見つけると、船を近づけて活きた鰯を投げ込み、群れを飼い付けてから活きた鰯を餌にして釣り上げ、鰹の食いが良ければ、擬餌針に替えて釣り続けます。
一日で300尾の鰹を釣れば大漁です。500尾、1000尾も釣れば、大喜びで大漁を知らせる「印旗」(ノボリ)をあげて帰ってきました。村で待つ人々は、印が上がっている船の模様でどの船が大漁かがわかったといいます。氷や冷蔵庫のないこの時代、釣り上げた鰹は、鰹節に加工されてから、消費地に送られていました。
明治41年(1907)春、県下で初めて発動機を付けた「南島丸」が八丁櫓の鰹船の4倍もの水揚げを記録、それを機に鰹船の動力化がいっきに進み、八丁櫓の鰹船の姿は消えていき、絵図や古写真に残るだけとなってしまいました。

泡
灯台

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