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「今月の逸品ver.2」 vol.22 口之津歴史民俗資料館 の「口之津灯台の初代レンズ ~灯台に見る近代世界の発展~」
ミュージロー
2019/03/12
三角旗

「今月の逸品ver.2」第22回目は、口之津歴史民俗資料館 の「口之津灯台の初代レンズ ~灯台に見る近代世界の発展~」です。

 江戸時代の航路標識は「燈明台」や「常夜灯」と呼ばれる建造物に、松明や篝火を灯すというものでした。
 明治維新後、日本は欧米の文化や技術を積極的に取り入れました。口之津灯台もその一つで、フランスの技術者オーギュスタン・ジャン・フレネルによって開発された「フレネルレンズ」が大きな特徴です。
 1800年代初頭、ニュートンの「光の分子説」によって迷走していた西洋光学は、フレネルが提唱した「光の波動説」を邪道として、最初は排除していました。そこでフレネルは、フランスで最も歴史のあるコルドゥアン灯台のレンズを製作し、その公開実験をパリの凱旋門でおこない「光の波動説」を実証しました。それでも、フレネルの理論を形にする技術が伴っておらず、完全なフレネルレンズは1854年にようやく完成を見ます。実にフレネルの死後27年を要しました。
 当初フレネルレンズの製作は、フランスが独占していましたが、イギリスのチャンス・ブラザーズ社も徐々に技術力を高め、世界市場に参入するようになりました。このチャンス・ブラザーズ社は、当時のイギリスを代表するガラスメーカーで、1851年のロンドン万博では、メインパビリオンとなる「クリスタルパレス(水晶宮)」を手掛けました。さらに、ビッグベンの時計盤の乳白ガラスや、アメリカのホワイトハウスの装飾ガラスの製作にも携わっています。また、地中海の入口であるジブラルタル海峡のエウローパ岬に立つ灯台は、戦略的要地であるため、イギリスのトリニティ・ハウス(イギリス水先案内協会)が管理していました。1864年、この灯台が改修された際、そのレンズの入札で、当初フランスのメーカーが落札しましたが、イギリス海軍フレデリック・アロー軍師の「この灯台は、他のいかなる灯台よりも多くの、しかもあらゆる国籍の人の目にとまる。1週間のうちにここを通過する船の数は、他の灯台の数年分の統計における1週間より多い。そのような灯台のレンズは、ぜひともイギリス国産であるべきだ」という意見によって、トリニティ・ハウスはやむなく入札契約を撤回し、チャンス・ブラザーズ社にレンズの製造を依頼したという逸話も残っています。
 口之津灯台の初代フレネルレンズは、このチャンス・ブラザーズ社で1877年に製作されたレンズであることが、その銘鈑に刻まれています。口之津という地方の灯台を紐解くと、日本の歴史、さらには世界の歴史ともつながっていることがよく分かると思います。

※口之津灯台は2019年3月26日にLED灯器に変更され、139年間使用されたフレネルレンズは、その役目を終えました。

泡
灯台

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