全国のみなとの博物館、港情報はここで!最新イベント情報も随時更新中です。みなとの情報が一目で分かる、みなとの博物館ポータルサイト。

みなとミュージローブログ

2015年12月15日

新着資料の紹介コーナー 第18回「道の駅「開国下田みなと」(ハーバー&JGFAカジキミュージアム)」


今回新着資料として紹介するのは、道の駅「開国下田みなと」(ハーバー&JGFAカジキミュージアム)の「近世下田港復元模型」と「下田年中行事全87巻」です。

ハーバーミュージアムでは下田の街が出来るまで、そしてその歴史を復元模型や貴重な資料で紹介しています。
今回は風待ち港として栄えた下田の近世の時代をご紹介します。

「近世下田港復元模型」

下田町の原型は江戸時代に築かれ、現在も町名などにその名残をとどめています。
江戸時代の下田は箱根と並ぶ海道の関所として繁栄の時代を迎えました。
そのにぎわいは今日では想像もつかないほどでした。

この模型は元禄6年1693年前後の下田の河口周辺を再現した模型です。
この時代、下田が江戸を守る海の関所となり、上り下りの全ての船は下田に入港し、舟改番所で検問を受けました。
検問を終えた舟は出港出来る日を待って港内に停泊。船頭や政府達は上陸して買い物をしたり、海上生活の疲れを癒しました。
諸国の乗組員を停める船宿も数多く営まれ、家大工や桶屋などの職人の中で、造船の修理にあたる船大工が最も多かったのもその時代の下田の特徴です。
船や人や物がにぎやかに行き交い、活気ある港町の姿を見せていました。


 

 「下田年中行事全87巻」

第2代下田奉行今村伝四郎の時代、町を風や波から守る武ガ浜波徐が築かれ安全な街並みが形成されました。
海上交通の中継地下田には、往来する船と共に東西の文化が流入し、その刺激を受け中根東里・石井縄斎・篠田雲鳳などの文化人が生まれました。街の書き役に就任した平井平次郎は、
天保14年「下田年中行事」全87巻を完成させました。
支配や略史、寺院縁起、日常の生活・不時の災禍など膨大な資料が収録され、風待港に生きる人々の暮らしをいきいきと伝えています。



道の駅「開国下田みなと」(ハーバー&JGFAカジキミュージアム)の情報はこちら







at 16時06分

2015年11月16日

新着資料の紹介コーナー 第17回「みくに龍翔館」

今回新着資料として紹介するのは、みくに龍翔館の「内田家文書~三国湊の豪商の家に伝わった古文書 約7,000点~」です。


 三国湊は、北前船の寄港地としてたいへん栄えていました。福井藩主の松平家も、越前の経済拠点として三国を重要視していました。中でも、江戸時代後期から明治時代にかけて、三国湊の歴史とともに歩んだ豪商が、内田家です。
 三国湊の内田家は、元禄16年(1703)、福井から三国に分家し、惣右衛門を祖として始まりました。廻船業にも進出し、19世紀前半には飛躍的な発展を遂げた三国内田家は、巨額の御用金を納めるなど、福井藩の経済を大きく支え続けました。藩も、苗字帯刀を許し、知行300石を与えるなど、内田家の功績に報いています。
 さて、この度、みくに龍翔館に内田家から7,000点にも及ぶ古文書の寄託がありました。内田家の系譜、生業、福井藩との関わり、そして、代々内田家当主がたしなんできた和歌の世界など、内田家の様々な側面がうかがえる貴重な資料群となっています。三国湊の豪商 内田家の歴史に、今一度、触れてみてはいかがでしょうか。



内田惣右衛門 1787~1835

三国内田家を大きく発展させ、天保の飢饉の折、救恤策をとったことでも知られる。庸(もちう)の名で和歌をたしなむ文化人でもあった。


内田家文書

内田家に伝わった約7,000点の古文書。時代は、三国内田家が興った江戸中期から昭和に至る。

 

みくに龍翔館の情報はこちら

at 10時23分

2015年10月13日

新着資料の紹介コーナー 第16回「石川県銭屋五兵衛記念館」

今回新着資料として紹介するのは、石川県銭屋五兵衛記念館の「御手船常豊丸」(1/4スケール)です。
銭屋五兵衛がここ金石(当時 宮腰)で建造した、1,500石積級の加賀藩の商船です。
五兵衛自身が「日本一の船玉」と自画自賛しているように、五兵衛が心血をそそいで建造した北前型弁才船です。
五兵衛は加賀百万石の御用船として全国諸港を自由に航行できる永代渡航免許を得て加賀百万石の威光を背景に販路を拡充して行きました。

  

石川県銭屋五兵衛記念館の情報はこちら

at 10時40分

2015年09月24日

新着資料の紹介コーナー 第15回「日本海交流センター」


今回新着資料として紹介するのは、日本海交流センターの「伏木富山港の紹介パネル」です。


日本海交流センターが立地する伏木富山港は、本州のほぼ中央部に位置し、その恵まれた地理的条件により、古くから日本海側の重要な港として栄えてきました。伏木地区、新湊地区、富山地区の3地区から構成され、環日本海・アジア地域の交流・物流拠点として大きな役割を果たしています。
このように日本海側の「総合的拠点港」として発展を続ける国際拠点港湾伏木富山港の紹介を海王丸パーク内日本海交流センターにて展示しております。どうぞご覧になってください。


  


日本海交流センター・帆船海王丸(海王丸パーク)の情報はこちら



at 10時13分

2015年08月21日

新着資料の紹介コーナー 第14回「新潟市歴史博物館」



今回、新着資料としてご紹介するのは、新潟市歴史博物館の「三番組の纏(まとい)」です。

本資料は、湊祭に曳き廻された纏(まとい)という出しものです。湊祭とは、現在の新潟まつりのルーツの一つに数えられる、江戸時代から新潟町で行われた住吉社の祭りです。七夕に行われたことから七夕祭りとも言われました。新潟町が22組に分かれて参加しました。湊祭は明治5(1872)年に県令楠本正隆により禁止されますが、以後復活と中止を経て、戦後新潟まつりとなり、湊祭の情景は今日の住吉行列に引き継がれています。
纏と言うと、町火消しが振るうものが想起されますが、湊祭では各組の象徴として、行列の先頭に出されたものでした。纏ごとにそれぞれの装飾があり、その詳細は文久3(1863)年の「湊祭行列帳」等に記されています。
この纏は、三番組のもので、台の周囲の部材と腕木に黒漆、擬宝珠の高欄には朱塗が施されており、柱に「三番」と書かれた額、翼を広げた丹頂鶴と金色の雲間からのぼる日の出をあらわした装飾が目をひきます。この纏の製作年は分かりませんが、先述の「湊祭行列帳」に「纏 車付 壱本 但日ノ出ニ鶴之図 巾六尺高一丈五尺」とあり、江戸時代の装飾を引き継いでいるものと思われます。纏の中心には一本の柱が立ち、額が掲げられ、本来は柱の先端に剣が取り付けられていました。戦後、新潟まつりの住吉行列で出した折り、電線に当たるため柱を付け替え、今回組み立てたように剣は台の隅に取り付けるようになりました。ほかにも曳いた際にバランスが取りやすいよう基礎の前方に車輪が取り付けられているなど、改変されている箇所があります。


新潟市歴史博物館の情報はこちら



at 16時21分

カレンダー

前の月 2019年12月 次の月

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

検索

最近のエントリー

アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

RSS