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みなとミュージローブログ

2011年11月28日

今月の逸品 vol.2  船の科学館の南極観測船“宗谷”



「今月の逸品」第2回目は、船の科学館の南極観測船“宗谷”です。


南極観測船“宗谷”

今から50年以上前、わが国初の南極観測船として活躍した“宗谷”という船を知っていますか?
 当時、わが国は敗戦後10年しか経っておらず国際社会に復帰できずにいる中、世界の国々と共に「未知の大陸」と呼ばれた南極大陸に果敢に挑戦、苦難の末に南極観測を成功に導いた船です。
 この“宗谷”が建造されたのは、さらに昔73年前の1938年(昭和13)のこと、ソ連向けの耐氷貨物船“ボロチャエベツ”として長崎にある川南工業㈱香焼島造船所で進水しましたが、ソ連に引き渡されずに“地領丸”という日本の貨物船として竣工しました。
 その後、1940年(昭和15)日本海軍の特務艦として初めて“宗谷”と命名され戦時下の南方で測量業務を遂行、この間に敵潜水艦の魚雷が命中しても不発、銃撃や爆撃を受けても“宗谷”だけすり抜けるなど、強運の船として奇跡的に戦争を生き延びることが出来ました。
 終戦後は、外地邦人の引き揚げに使われ、海上保安庁の灯台補給船となったのち、大改造の末に氷を割って進むことのできる砕氷船となって1956年(昭和31)に南極へ向い、接岸不能と呼ばれたプリンス・ハラルド湾のオングル島に到着、不可能を可能にしてわが国初の南極観測事業を奇跡的な成功に導きました。
 こうして、6回南極を往復し使命を果し、晩年は北海道の第一管区海上保安本部の巡視船として海難救助等にも活躍しましたが、1978年(昭和53)10月に40年の永きにわたる活躍に幕を閉じ解役されました。
 以来、船の科学館で一般公開を続けています。さあ、皆さんも、不可能を可能にした「奇跡の船」と呼ばれる“宗谷”に会いに、東京お台場にある船の科学館に是非お越しください。ご来館をお待ちしています。






 
<タロとジロの物語>
 “宗谷”初の南極観測で、隊員と共に越冬することになったタロとジロを含む19頭のカラフト犬は、大陸の調査旅行など雪上車以上に活躍しましたが、越冬中に3頭が死亡し8頭の子犬が生まれて、“宗谷”の再来を待ちました。
しかし、翌年“宗谷”は分厚い氷と激しい吹雪に阻まれて昭和基地に近づくことができません。なんとか、11人の越冬隊員と犬9頭(子犬8頭と母犬のシロ子)を救出、どうしても助けることができなかった15頭のカラフト犬が1本のロープにつながれて南極に残されることになりました。残された犬のうち、7頭は氷に埋まって死にましたが8頭は首輪を外し鎖を切って抜け出し、その中でタロとジロだけが厳しい冬の南極を生き抜いて第3次南極観測隊に発見されました。タロとジロは兄弟どうし励ましあい、アザラシのフンなどを食べて-40℃にもなる寒さに1年間耐抜いたものと思われます。

タロ(オス、1歳、長毛黒、33.5kg、稚内)
昭和30年(1955)10月生れ。父は風連のクマ、母は稚内市のクロ、三兄弟の長兄。魚市場で魚と共にセリにかけられているところを発見、南極行きのカラフト犬として買い取られ、かつての白瀬南極探検隊のカラフト犬タロ、ジロにちなんで名付けらました。おっとりした性格、第1次南極越冬後やむなく南極に残されましたが、ジロと共に奇跡的に南極の冬を生き延びました。その後、弟3次、第4次南極越冬に参加、昭和36年(1961)50月、6年ぶりに帰国。北海道大学附属植物園で余生を送り、昭和45年(1970)8月老衰のため死亡、14歳7ヶ月。現在は剥製となり、同植物園に置かれています。

ジロ(オス、1歳、長毛黒、33.5kg、稚内)
タロと兄弟犬、タロとジロはとても仲が良かったとのことです。全身まっ黒でしたが、胸と前足の先端が白いのが特徴。実はもう一頭サブという兄弟犬がいたのですが訓練中に死亡、タロとジロの2頭で南極に行くことになりました。南極越冬中にシロ子と結ばれ、8頭の子犬の父親になります。無人の南極に残されましたがタロとともに第3次南極観測で奇跡的に生存が確認されました。その後、第3次、4次と南極越冬に参加しましたが第越冬中の昭和35年(1960)7月、昭和基地で病死しました。4歳10ヶ月。現在は剥製となって上野の国立科学博物館に保存されています。








at 14時08分

2011年10月20日

今月の逸品 vol.1 東京みなと館の慶長小判

「今月の逸品」スタートは、東京みなと館の慶長小判です。








 この小判は、昭和39年、深川有明町の埋立地(現在の有明コロシアム周辺。当時は海岸線波打ち際)で発見され、当時の新聞を大いに賑わしました。その結果、埋立地で時ならぬゴールドラッシュが巻き起こりました。



 当時、発見された小判は2種類で、上記有明町からは慶長小判が、江東区潮見からは元文小判が発見されました。



 何故埋立地に小判があったのかは、正確なところはわかっていません。当時の新聞では「小判が出土した場所の土の色などから見ると、戦後捨てられた瓦礫や地下鉄工事現場等で発生した土砂の中からではなく、芝浦桟橋先あたりから運んだ戦前の土砂の中にあった」と報道されています。



 江戸湊は水深が2m以下の遠浅の港で、現在の芝浦桟橋付近には澪筋(千石船の航路)がありました。江戸初期に、そこを航行中の千石船が沈没したか或いは艀に積み替える際に海中に落としたかして、小判(千両箱?)は海底に没してしまいました。その後、数百年の時を経て、芝浦ふ頭付近の浚渫が行われ、その土砂は埋立に使われました。その中にこの小判が交じっていたのではないかと推測(推理?)が飛び交いました。





 東京港の歴史が生んだロマンとして非常に興味深い逸品です。

ちなみに、財産的価値がどのくらいかと申しますと、平成8年頃にTVの「開運!なんでも鑑定団」に出品され、1650万円の値がつけられました。当時の会計上の財産価格は168万円とされていますので、約10倍の評価額がつけられたことになります。(同時に「21世紀に残したいお宝・殿堂入り」に認定されました。)



 実を言えば、この小判は東京都の財産であり、現在も港湾局において厳重に保管されています。公開されたのは、平成8年12月から平成9年3月までで、東京みなと館がオープンした時に展示したのが、最初で最後となっています。

 公開には厳重な警戒やそれなりの設備が必要となりますが、いずれ再度公開できるよう取り組んでまいります。みなさん、乞うご期待。


公開当時のチラシです

at 19時46分

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